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ゼロからスタート。支えてくれる皆さんのおかげで。

2012年5月に先天性ミオパチーの会を発足しました。
「あきらめたらだめだ」を合言葉に、病気への理解や地域格差のない医療体制の構築、一日でも早く治療法の確立を目指して活動しています。自身の経験から呼吸ケア・リハビリテーションの必要性、人工呼吸器の適切な設定の重要性も発信しています。

弊会活動のご理解とご協力よろしくお願い申し上げます。

 WEBサイト: https://ryoit00.jimdofree.com/

プロフィール

 誕生~小学校_

幼稚園のお遊戯会

1991年5月29日、福岡県北九州市で生まれました。生まれた時、動かないし、泣かないし、呼吸もしていなかったらしく、すぐに産婦人科から総合病院に搬送されました。2ヵ月後に新生児特定集中治療室(NICU)から出て、母はこの時に初めて僕を抱き上げたそうです。
NICUで担当医だった先生が、高校まで主治医として診てくれました。NICUを出てからも、気管支炎や肺炎などで入退院を繰り返していました。一方で、首を前に起こすことが出来ず、這い這いや歩行なども出来なかったので、トレーニングのため療育センターに通っていました。

周りの子供と比べて成長が著しく遅かったので、受け入れてくれる幼稚園を見つけるのが大変だったそうです。入園してからは、縄跳びをすればジャンプが出来なかったり、段差のないところでよく転んだり、運動会やマラソンで走れば最下位で、出来ないことを「どうしてなんだ?」といつも悔しく思っていました。

身体への負担を考えて、小学校入学前に、療育センターで筋生検をして、その後、「先天性ミオパチー」と診断されました。診断以降、小学校、中学校・高校と入学前に、身体のことや周りの皆への説明や配慮、ケガをした時にどうするかなど、主治医や学校と話し合いが行われていました。

小学校に入学すると、友達と体力の差を一時あまり感じない時がありましたが、学年が上がるにつれ、体育の授業ではついていけないことも増え、見学することも多くなり、体力の差を感じるようになりました。みんなとの違いで「ボールを蹴っても飛ばない」や「同じように走れない」などがありました。運動会では半周遅れ、マラソン大会では前の走者とかなりの時間が経ってのゴールが当たり前でした。運動会では、「練習→当日→来年もまたある」といつもストレスでした。5~6年の時、騎馬戦で騎馬と馬の両方の役を務め闘かったことは、良くも悪くも思い出として残っています。

9歳と12歳の肺機能検査後に「肺活量(%VC)が46%しかない。肺が半分。出来る運動も友達の半分。」という感じで聞かされていて、時折、頭痛や呼吸苦があることを伝えていました。

小学校運動会の徒競走

 中学校~高校_

中学校まで校区外に住んでいたため、バスを利用して通学していました。バスの階段を昇るのが大変で、また、学校まで歩いて行くのに、友達と同じ速さで歩くことで精一杯で、すべての体力をほぼ通学までに使っていました。一番辛いのは、会話しながら歩くことで、歩いている時は呼吸が苦しく、学校に着くと頭痛が起きていました。起床後も頻繁に頭痛が起こっていたため、何度も主治医に相談していました。MRIやCTの検査では、「大丈夫。問題ない。精神的なもの」といった感じで伝えられていました。

bfgbスイミングの様子

主治医からの勧めもあり、体力をつけるために、幼稚園からスイミングに通っていました。中学生になると、泳ぐ距離が長くなり、泳ぎ終えると、強烈な頭痛や体のふらつきが起きていました。通学時の症状と同じで、みんなにも頭痛やふらつきの症状があると思っていたので、常に呼吸苦や頭痛などの症状がありましたが我慢していました。後に、高二酸化炭素血症の状態であることが分かったのですが、この時に、人工呼吸器などを使って、体を休めたり呼吸ケアしたりする必要があったのだろうと思います。

僕の最大の転機になったのが、高校2年のときの修学旅行で、新潟でスキー合宿でした。修学旅行2日目、体がとても重く、頭痛で起き上がれませんでした。風邪を引いたのかと思っていましたが、地元に帰っても、症状は改善されず、ついに頭痛に耐えられなり、救急で入院することになりました。すぐに原因は分からず、原因不明で熱、頭痛、呼吸苦などが続き、症状から髄膜炎の疑いで髄液の検査を受けましたが、症状の原因ではありませんでした。改善されないまま、退院する当日、担当してくれていた研修医が動脈血ガス検査を実施しました。その結果で低酸素、高二酸化炭素の呼吸不全状態であることが分かり、その後、慢性呼吸不全の状態であることから、非侵襲的人工呼吸器(NIV)を導入することになりました。

高校修学旅行でスキー合宿

呼吸器導入以降、動脈血ガス検査は朝・昼・晩と受け、高校2年が終わる頃で、病院から学校へ通うこともありました。下校直後、起床直後、病院でのリハビリの歩行・階段昇降トレーニング前後など様々な状況で検査を受けました。
高校3年は体調を崩すことが多く、休んだり早退したりすることが多くありました。また、通学路が急な坂だったこともあり、車で送迎してもらうことも多くありました。そんな状況の中、学校側から休学や通信制を勧められたことがありましたが、出席が難しかった体育はレポート提出をして、また、下駄箱を教室の近くに設置していただくなどして、なんとか高校を卒業しました。

 闘病~先天性ミオパチーの会発足_

高校卒業後、身体・精神面で疲労していて、体調改善に専念することにしました。一方、病気と症状に対して不安や疑問は日々強くなり、インターネットなどで調べ、専門病院を受診することにしました。そこで、初めて先天性ミオパチーの性質と呼吸リハビリテーションの必要性、人工呼吸器の適切な設定の重要性など知る機会になりました。

病院で、呼吸リハビリ

現在では、ご縁あって北海道の専門病院を年一回受診してます。一年間の評価、呼吸器の設定やマスクの選定などしていただき、一週間程度の入院をしています。地元かかりつけ医では、この専門病院と連携を取っていただき、体調の変化があった時に受診しています。週に一回程度、身体の可動域が狭まらないようにストレッチ、胸郭の柔軟性を保つための呼吸リハビリを受けています。

NIVは1日6時間~24時間使用していて、自宅にいる時は、ずっと使用していることが多く、同じマスクを使用していると顔に当たる部位が変わらず痛いところが出てくるため、昼間と就寝時で異なるマスクを使い分けるときがあります。

ある日、自分の病気の進行のこと、これまでの経験を、考え振り返ることがありました。そんな中、ミオパチー研究の第一人者である埜中征哉先生にご連絡をし、お会いする機会をいただきました。この出会いが活動を始めるきっかけとなりました。自分自身のためだけでなく、同じ病気の方々のために社会に発信しようと、2012年5月 先天性ミオパチー(筋疾患)の会の活動を開始しました。

埜中先生との交流会